吉良の塩田の歴史

三河湾の入浜式塩田

 吉良周辺の三河湾沿岸の塩田による塩づくりは、戦国時代までさかのぼることが明らかになっています。
 江戸時代になると、遠浅の海岸を利用して、干拓地に大規模な入浜式塩田が営まれるようになりました。入浜式塩田は瀬戸内地方で発達した製塩法で、潮の満ち引きを利用して海水を引き込むことが可能となったため、生産性が向上し大規模な塩田の開発が可能になりました。
 江戸時代、三河湾で作られた塩は地元で消費されるばかりでなく、足助を経由して「塩の道」を通り、信州伊那地方にも流通していました。その中でも、吉良で採れた塩は「饗庭塩」の名で知られ、苦汁が少なく良質であったことから、岡崎の八丁味噌には「饗庭塩」が用いられました。


朝の入浜式塩田(白浜) 昭和27年7月20日撮影


砂よせ作業(白浜) 昭和25年ごろ


明治時代以降の塩生産



 明治38年に国による塩の専売制が導入されると、現在の名鉄吉良吉田駅の南に名古屋塩務局吉田出張所(後の専売公社吉良出張所)が設置され、この地域で生産された塩の買取と指定卸売業者への払い下げを行いました。   
 明治43年と昭和4年に、国によって小規模で生産性が劣る塩田の整理が実施され、その結果、東海地方の塩田は、吉良・一色(西尾市)、塩津(蒲郡市)のみとなりました。


炎天下の製塩作業 昭和初期


流下式塩田の導入

 昭和28年の台風13号に伴う高潮によって、入浜式塩田は壊滅的な被害を受けました。
 この頃、瀬戸内地方では、流下式塩田と呼ばれる新方式の塩田が導入され始めていました。緩やかな傾斜をつけた流下盤と、枝条架と呼ばれる竹の枝を取り付けた巨大な櫓を備え、ポンプを使って海水を循環させ濃縮を行う製塩方法です。濃縮された海水は、大規模な製塩工場に送られ塩が生産されました。
 流下式塩田の建設には多額の資金が必要となるため、愛知塩業組合が結成され、これまでの個人経営の人力による生産から、近代的な組合組織による塩生産に大きく変わりました。しかし、建設のための債務の返済や、昭和34年の伊勢湾台風の被害によって組合の経営は困難な状況が続きました。
 昭和40年代になって組合の経営はやや安定しますが、イオン交換膜を用いた工場製塩に全面移行する国の政策により、昭和46年末で全国的に塩田は廃止されることになりました。これをもって、約500年の歴史を有する吉良の塩田は姿を消しました。


流下式塩田と真空式製塩工場(本浜)


昭和40年代の流下式塩田(白浜)


昭和46年末で流下式塩田は操業を終了し、枝条架は焼却処分された