忠臣蔵塩田原因説

華蔵寺 吉良上野介義央(よしひさ)木像

 江戸城松の廊下にて、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた刃傷事件の原因を、塩田にまつわる確執に求める説があります。吉良義央が入浜式塩田の先進地であった赤穂に、製塩法の指導を願い出ましたが拒否されてしまいました。これに立腹した義央が、勅使饗応役を拝命していた浅野長矩に対し、儀式典礼を司る高家の立場を利用して故意に恥をかかせたとされます。浅野は吉良に対する恨みから、刃傷事件に至ったとする説です。

 この説の初出は戦後とされ(『赤穂義士事典』赤穂義士事典刊行会 昭和47年)、NHK大河ドラマ『峠の群像』(堺屋太一原作)で取り上げられたことなどを通じて広く一般に認知されるようになったようです。
 吉良義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に、既に開発されていた幡豆郡の塩田は、本浜及び白浜のみです。このうち、本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領で、いずれも吉良領ではありません。「忠臣蔵」塩田説では、吉良義央が元禄元年(1688)に妻富子の眼病治癒を期に干拓を行ったと伝えられる富好新田に塩田が築かれたと説きますが、元禄7年に富好新田の海側に接する白浜新田の開発が開始されるため、内陸側に位置する富好新田で大規模な塩田が営まれたとは考えにくい状況です。富好新田の享保16年(1739)の年貢割付状には、塩田に関連する税が徴収された記載は認められません。江戸時代の幡豆郡では、複雑に大名領・旗本領などが村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励し、積極的に塩の販売を行ったとは考えにくいようです。また、塩の販路については、赤穂塩が廻船によって江戸の他、各地に流通したのに対し、吉良の塩は三河以外に知多の醸造業や信州伊那谷方面に流通した程度で、生産量は赤穂をはじめ瀬戸内産には遠く及びませんでした。

吉良家菩提寺 華蔵寺

山門

華蔵寺(けぞうじ)
江戸時代に再興された旗本吉良氏が創建した臨済宗寺院。
境内の吉良家墓所には、上野介義央をはじめ歴代当主の墓が立ち並らぶ。本堂裏手の庭園は小堀遠州流といわれ、ツツジの時期が美しい。
境内拝観自由。本堂・庭園の拝観200円。
御影堂内の吉良義央木像は、12月14日の毎歳忌の日を除いて非公開。
塩田体験館から車で約15分

吉良上野介義央墓